島原半島のキリシタンの足跡

原城跡


「島原の乱」の舞台となるこの原城は長崎県の島原半島の南部、南島原市南有馬町にあります。
有明海に突き出した岬を利用したこの城は、風光明媚であるとともに、天然の要害でした。

明応5年(1496)有馬氏の8代目領主有馬貴純により、日野江城の支城として築城されました。本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成され、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。
晴純の時代が全盛期で次第に衰退し、晴信の時代には岡本大八事件で出羽に流され、その子直純が後を継いだが2年後日向国に転封となり、有馬氏の時代は終わります。
元和2年(1616)に松倉重政が入封しますが、この地にはしばらくいただけで島原城の築城に取りかかります。新城の築城にあたっては延べ100万人ほどの人夫を動員し、原城の石垣や構築物をはずし運ばせた ということです。

廃城となったこの原城は21年後の寛永14年10月末(1637)島原の乱の舞台として再び登場します。
松倉氏の二代にわたるキリシタン弾圧と、それに名を借りた搾取に飽和状態に達した農民の爆発は起こるべくして起こり、天草四郎を総大将として3万数千人がこの原城に籠城しました。これに対する包囲軍は西国諸大名の軍勢12万5千で、籠城3ヶ月もすると食料、弾薬も乏しくなってきました。
翌年の寛永15年2月27、28日の総攻撃で一揆軍は全滅しました。そして原城は徹底的に破壊されました。領主松倉勝家は一揆の責任を問われ、所領没収を没収され7月に斬首されました。

日野江城跡


島原鉄道北有馬駅の北部の小高い丘にある。南には有馬川が流れ、東には大手川が流れている。縄張りは北西に三の丸、東に二の丸を配し中央の丘頂部に本丸が置かれた連郭式平山城である。
平成7年(1995年)より平成12年(2000年)までの間に4次にわたる発掘調査が行われた。この際に、他には安土城にしか見られない直線階段や、海外の技術を取り入れた石組み、金箔を施した瓦などが出土した。先進性や豊臣政権と密接な関係を持っていたことを窺い知ることが出来る。
遺構としては現在、石垣・空堀が確認できる。

島原城


有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城。高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周囲を内堀で囲まれており、二の丸と橋一本で繋がれている。橋を壊せば本丸を独立させることが出来た。また、天守は5層5階で「唐造り」と呼ばれる破風を持たない独立式層塔型であった。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の島原藩は4万石であったが、石高に比べると極めて立派な城である。
1876年(明治9年)に天守・御殿以下建造物は悉く破脚された。現在は本丸に天守・櫓・長塀が復元され、城跡公園となっている。


雲仙地獄

島原城主・松倉重政らが1627年、転宗を迫りパウロ内堀作右衛門ら16人に熱湯をかけるなどの迫害を加えたのが地獄責めの最初とされている。その後長崎奉行らがカトリック教徒を次々と雲仙に送り、中止されるまでの5年間に数千人が責められ、33人が殉教している。小地獄も責めが行われた場所のひとつで。山入りと称して地元の有家・有馬・口之津からも連れて行かれた。


まだれいなの墓

自然石立像。カルワリオ十字紋を平彫りし、「まだれいな」と刻んである。<県指定>


キリシタン史跡公園

有家町には現在33基のキリシタン墓碑の所在が確認されており、内17基が「桜馬場墓碑群」道路端や石垣、畑の中などに散在していたものを一ヶ所に集めて奉祀した公園。


有家セミナリヨ跡

文禄4年(15956月設立。慶長元年(1597)長崎西坂におけるキリシタン信徒26人の処刑により危険が迫り、二年足らずで閉鎖。


吉利支丹墓碑

昭和4年出土。半円柱蓋石型。碑文は日本最古のローマ字金石文。ポルトガル式綴字法のローマ字で「フィリ作右衛門ディオゴ生年○○御出生以来1610 十月16慶長15


有馬セミナリヨ跡

1580年、織田信長の拠城安土と並んで日本に最初に設立され、天正遺欧少年使節が学び巣立った事で有名。


八良尾セミナリヨ跡

天正161588)年から文禄4年(1595)までの間に2回セミナリヨが置かれたところである。


北岡天満神社

セミナリヨの別荘、北岡の聖母があったところ。


大野城跡

妻子ともにキリスト教に入信した大野山城の居城。


金山城

熱心なキリシタンであった有馬の家臣、結城弥平次の居城。


千々石城

千々石ミゲルの生まれたところで天正16年(1588)にはコレジヨが一時移転した所でもある。


加津佐コレジヨ・セミナリヨ跡

日本で最初の活版印刷がなされた場所。


円通寺門礎石

正平8年に大智禅師によって開かれた水月山園通寺の礎石。大きな山門や諸堂が建立されていたが、天正年間、有馬氏がキリシタンに転宗したとき寺は廃された。


玉峰寺

切支丹時代に教会があったところで、ヴァリニヤーノが宣教師を集めて口之津会議を開いた場所。


耳採(みみとり)

長崎から運ばれたキリシタン64人の逃亡防止のために耳がそぎ落とされた場所。


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